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咲野…山頭火の妻4


咲野4
種田家には七十八歳になるツルという名のおばあちゃまが居られました。お舅さまを生んだ人でお母様が亡くなられてから正一さんたち五人の孫を育ててきた方です。古くからいる使用人は若奥さんが井戸に飛び込んだのは大旦那さんだけのせいではのうて、嫁姑の問題も大きかったのだと教えてくれよりましたが、私にとってのツルおばあちゃまは
「ツルはサキノさんよのう。掃きだめに鶴。ほんとによう来て下された」
と仏様のように優しゅう接してくださるのでとてもそんなことは信じられんとです。
そのほか、正一さんにはお姉さんと妹さんが一人ずつに弟さんが二人ありましたが、下の弟さんの信一という人は三つの時にお母様に死なれて五つで流行病(はやりやまい)で亡くなったそうです。その時十三歳だった正一さんは一晩中遺体の傍から離れんかったとおばあちゃまは言うとられました。それは、上の弟の二郎さんが、その前の年に遠縁の有富家に養子に貰われていったショックが大きかったから余計に辛かったんやろうということでした。
「二郎は六つやった。フサさんが」
フサというのは井戸に飛び込んだお母様の名前です。
「フサさんがあないなことになってから種田の家は魔物に魅入られたように悪いことばっかり続いてなあ…正一は線の細い、気持ちの優しい子やけん、どないか辛かったことじゃろうて…連れて行かれる二郎を村はずれまで追うていってのう、泣きながら帰ってきた…父さんが悪いんじゃ~、父さんがいかんのじゃ~言いながら」
そして、涙を拭くと「業やれ業やれ」と呟かれるのでした。「業やれ」というのはおばあちゃまの口癖で「仕方ない」ということでしょうか。若こうして夫を亡くし、後家を通し守ってきた種田家が崩れていく音を聞くたびに「業やれ」と呟きながら孫たちを育ててこられたとです。私にも兄と弟がいますからずいぶんと切ない話です。
私が嫁いだ時はお姉さんのフクさんは病で亡くなられていて、妹のシズさんも嫁いでおられたので家族としてはお舅さまとおばあちゃまと正一さんだけでした。母は自分が姑で苦労したのでそんなことも事前に調べていたようです。シズさんは私が嫁いで来る前にと急いで結婚させられたそうで、知らなかったとはいえ申し訳のないことでした。それと、当時は元芸者さんだったというおコウさんという人がお舅さまの奥さんでしたが、おばあちゃまが頑として家に入れなかったので別の家で暮らしているということでした。ですから、お舅さまも夜はそちらで過ごされるのです。
「竹二郎は、まあ、幾つになっても恥ずかしいことでの~た」
おばあちゃまは大きなため息をつかれるとです。
そうした事情がわかってきたことやおばあちゃまが私を気に入ってくださったこともあって、実家からついてきてくれたおやえは帰すことにしました。それに、落ち目ではあっても種田家に人手が充分にあったとです。
新酒の仕込みはまるでお祭りのように賑やかでした。大勢の使用人に近在の人が総出の作業です。里でも蒟蒻芋を掘りあげるときはたいがい賑やかでしたが、お酒と蒟蒻の違いでしょうか、華やかさが違うのです。正一さんも真剣に取り組んでおりまして「やはり結婚させてよかった」とお舅さまもおばあちゃまも喜んでくださったとです。

そんなこんなで嫁いでみると正一さんはみんなが心配するほど変わった人ではありませんでした。やさしい気遣いの出来る人でお米がお酒に変わっていく様子なんかも丁寧に教えてくれましてね。
正一さんは遊蕩三昧で大種田が没落していくことに何の手も打とうとせなんだお舅さまを嫌うておりました。いえ、そんな生やさしいもんじゃのうて…お母様を自殺に追い込んだことで憎んでおらしたとです。
「あんたがよそからの縁談だったらもっと早うに迎えとったと思う。親父が見つけてきたというだけで、あんたがどんなに美しゅうても抵抗があったとじゃ。けど、さすがに親というか女遊びが伊達じゃなかったというか…あんたは俺には過ぎた妻…ほんとに!ようきてくれた」
抱きしめられて、涙がホロホロこぼれてきました。大きゅうてあたたかい胸でした。
正一さんはサキノという私の名前を「この方があんたらしい」と「咲野」花の咲く野原に変えてくれました。このときから私は佐藤サキノから種田咲野に生まれ変わったとです。
こうして始まった結婚生活でしたが嫁いで一週間もしない内から正一さんは文学仲間の集まりなどで深酒、外泊は少のうはなかったとです。でも、まあそういうもんかと思いながらちいとお酒が過ぎるんじゃないかと心配でしたが寂しいとか不満は感じておりませんでした。おばあちゃまから教わることも多くてですね、結構忙しゅうしとったとです。


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咲野…山頭火の妻3

咲野3
 しかし、縁というのは不思議なものでありまして、世間知らずの私はあの眼鏡の奥の暗い目が気になって仕方なかったのです。それに正一さんは私の知っている男の人にはない、何かはわからないけどおしゃれというか知的なというのか不思議な雰囲気…もしかしたら都会的とでもいうのかそんなところに魅かれていたのかもしれません。それに縁談を断られたことで自尊心が傷ついて意地になっていたのでしょうか。
 断られた種田に嫁ぐという私を両親は呆れて相手にしてくれよりませんでした。一番怒ったのは又従兄弟の祐輔さんでした。祐輔さんは京都の師範を出て佐藤の経営を兄と一緒に手伝っておりました。祐輔さんは種田の家のことを調べてきてこの結婚でいかに私が不幸になるかを理路整然と説いてくれたとです。
 その理由というのが皮肉なことに後の山頭火さんが何かに書いていたものと同じなんです。
 「最初の不幸は母の自殺。第二の不幸は酒癖。第四の不幸は結婚、そして父になったこと」
 この頃はまだ第二の不幸までだったようですけど。あ。第三の不幸が書かれていないのは何を意図しているのかと山頭火の研究者さんたちはたいそうにお考えになっているようですけど、あの人は誤字脱字の多い人でしたから書き間違えただけだと思います。私は。
 
 正一さんのお母様は正一さんが十一歳の時に防府の屋敷の裏の井戸に飛び込んで自害されたそうです。夫の女道楽の激しさに死んで抗議をしたのだろうとのこと。一説には狂気の血筋説というのもあって、祐輔さんはそれを心配してくれちょるのでした。私は端正で優しいお父様の顔を思い浮かべました。歌舞伎役者にも面影の似とらす二枚目、その上、お金持ちとくれば女の人にもてん筈がありません。
 「それに酒!」
 祐輔さんは声を荒げました。早稲田を卒業前に帰ってきたのはお酒を飲み過ぎたせいやというんです。酒代に追われて逃げ帰ってきよったんやと。でも、今はおうちでお酒を造っているんだもの、なんぼでも飲めるやないですか。ですが祐輔さんは過度のお酒は体も心もボロボロにする麻薬だからサキちゃんは絶対に不幸になると断言するとです。
 反対されればされるほど私は正一さんが気の毒になっていきました。あの暗い目はあんまりにもたくさんの悲しいことを味わってきたからなんだと思うとかわいそうでなりませんでした。
 鬱々と時間が流れていきよりました。銀杏が落ちて梅が咲いて、桃や桜が満開になって私は女学校を卒業しました。
 女学校を卒業した私は花嫁修業というのでしょうか、母や叔母たちから料理や裁縫や生け花、表千家のお茶など家事一般を仕込まれていました。弟や近所の子供たちの勉強をみたりもしていました。縁談もいくつか持ち込まれましたが首を縦には振りませんでした。そうこうしている内に種田からお父様が何度も足を運んでこられるようになって親同士の話がどうなったのやらとうとう正一さんに嫁ぐことになりました。
 「あいつもすっかり大人になりましてな、最近はうまい酒造りの勉強をしちょるんですわ。これで、サキノさんがお出でてくれたら鬼に金棒です。よろしゅう頼みます」
 お父様は深々と頭を下げられました。
 「田舎育ちで一通りのことは躾けましたが至らないところも多い我の強い娘でございます。大事な一人娘でもございます。どうぞよろしくお願いいたします」
 母の言葉に頷きながら父も頭を下げました。

 秋になって稲刈りが始まると新酒の仕込みで酒造所の方が忙しくなるのでお盆を過ぎるのを待って嫁入りと決まりました。今は造り酒屋になっているとはいえ元は防府市の大地主という家柄ですからどこへ出しても恥ずかしくないだけの嫁入り支度を整えてくれました。その時に誂えてもらった家紋の入った桐箪笥などは今も使うております。
 祝言は防府の天満宮であげることになりました。長い花嫁行列が高瀬から佐波川沿いに続いていくのです。籠に揺られて船着き場まで行きます。そこからは船に乗り換えて何艘もの船で佐波川を下っていくとです。文金高島田に結い上げられた髪に絽とはいえ花嫁衣装を纏っての五時間はきつく二度と嫁入りなどしとうないと思いよりました。
 「サキさまの嫁入りじゃあ」と高瀬を出たあたりまでたくさんの人が見物旁々見送ってくれましたし、防府に近づくにつれて「大種田の嫁さんだっちー」「あのしょうさまの嫁御とな」と野次馬の途切れることものうて嫁入りとは大変なことでありました。
 女狂いの舅殿に暗くて得体の知れない婿殿、おまけに下り坂の家業。「そういうとこに、よう嫁ぐ気になりんさったね」友達にもよう聞かれました。なぜ?
 「正一さんを支え、子供を育て、種田の家を再興させる。ええな。それがお前の務めぞ」
 父からはそんな言葉で送り出されとです。
 時代と言うてしまえばそれまでですけど…実はですね、私、一緒に酒造所をやりたかったとです。正一さんと力を合わせて種田酒造を大きく育て上げていきたいと思うとったんです。そうすれば正一さんの悲しかった過去なんて思い出にしか過ぎなくなるに違いないって、一生懸命に考えて…ただ子供を産んで育てるだけの毎日よりはずっと生きがいがあるんじゃないかって。
 天満宮での婚礼と宴がすむと両親と兄夫婦に弟たちが並んで大道に向かう私の籠を見送ってくれました。後ろの方に立っていた祐輔さんとは朝から目を合わせませんでしたがこの時は睨むような目でじっと私を見つめちょりました。
 大道へは中年のやえという女中をつけてくれちょりました。私の未熟さを補佐させるためと一人では心細かろうという親心からでした。本当に親とはありがたいものです。
正一さんが二十七歳で私が二十歳。
 明治四十二年の八月二十日のことでした。

咲野…山頭火の妻2

咲野2
 こんな私にも十六の頃から縁談が持ち込まれるようになりまして、十七歳になるとずいぶんとあちこちからお話が舞い込んできたようです。当時、女はあまり賢くならないうちに片付けてしまわなければという風潮がありました。蜜柑でいうなら熟して虫のたからない青いうちに片付けてしまおうというようなところでしょうか。
 父は一人娘をあまり早ように手放したくはなかったのでしょう。お見合いをさせることもなく丁重にお礼を言いながらも聞き流しとったようです。ところが、一人やけに熱心な方がおられまして、何度も高瀬まで馬車で通ってこられるので両親とも弱っていました。あまりの熱心さに父も気持ちが動いたのでしょうか。それに、お相手が防府で一番の大地主で市の助役の「大種田」の跡取
りやったもんでいつものように簡単には断ることもできなかったんかもしれません。
 実はこの大種田のお屋敷は周南女学校の隣にあったとです。というより学校が種田家の敷地内にあったんかもしれません。なにしろ駅から家までがずっと種田家の土地でしたもんね。三方が田圃に囲まれた大きなお屋敷でありました。その道路に面した向かい側が女学校だったので、私のことを見かけて嫁にと声がかかったのかもしれません。
 私は学校生活が楽しゅうてとてもお嫁に行く気にはなれません。父は困ったようですが「卒業してからだな」と何か言いたげに、でも、そのまま話が終わったんでホッとしたもんです。
 でもですね、縁談を断ったものの、お向かいにお相手が住んでると思うとなんだか気になりましてね。ええ。お見合いをしたわけでもありませんし本人にも一度も会うたことがなかったんですけどね、種田の家の噂話なんかが聞こえると、つい、耳を澄ましたりしちょりました。
 ところが、間もなく種田家の人たちはいなくなってしまったのです。だい大どう道。防府から二里くらい西の方の海沿いの村なんですけど、そこの酒造所を買い取って引越していったということです。

 縁談が復活したのは女学校を卒業する半年ほど前やったでしょうか。その時の父の目は今までになく真剣でした。
 「正一さんは東京の早稲田大学まで行ったお人で詩歌や文学に造詣が深い。だから優しいお人に違いない。なにしろ大種田の長男として大事にされて育ってきちょる。お前を不幸にすることはないやろう。乞われて嫁ぐのがなによりの女の幸せ」云々…。
 ふ~ん、正一さんか…そういえば、時々お屋敷の中から「しょうさまー」という声が聞こえてきておったような。
 …いつかはどこかへ嫁がなければらないのなら父のいう通りにするのが安心なのかもしれません。今度は母からも説得されました。どうやら父親同士で話が進められているようでした。選挙というものが始まって、種田の旦那さんは代議士の後援もしちょるとか、それが佐藤の蒟蒻の商売に影響があるような…こりゃ政略結婚だわ…私は大袈裟に考える自分がおかしくなってクスクス笑うてしまいました。
 結局、卒業したら祝言をあげることになって大道に挨拶行きました。今では埋め立てられて酒造所の前には国道が走っておりますが、当時は大海湾に面していましたので周防灘さえも一望できる素晴らしい景色が目前に広がっておりました。それは山育ちの私には初めて見る夢のような美しい風景でした。
 通された北向きの座敷の濡れ縁からは広い庭が見渡せました。そしてその庭には大きな幾つもの樽が転がすように置いてありました。私の視線に気がついた旦那さんは「あれで酒を仕込むんよ」と優しく笑いかけてくれました。その時丸い縁の眼鏡をかけた青白い顔の若い男の人が入ってきました。えらく背の高い人でした。
 「正一。高瀬の佐藤サキノさんだ。サキノさん、これが長男の正一です」
 父と私は慌てて座り直してお辞儀をしました。正一さんは絣の着物を無造作に着ておられましたがどうも普段着のようです。朝から仰々しい支度をさせられた私はちょっとムッとしました。正一さんのお父様が困ったように苦笑されました。正一さんは正座をすると頭を下げました。そして
 「自分は、いずれ寺に入って禅僧になる身です。だから、結婚は出来ません。すみません」
 少しどもりながら、そう言うたのです。私と父はポカンと正一さんの顔を見ました。とても暗い目をしていました。正一さんはもう一度頭を下げると部屋を出て行ってしもうたとです。襖が閉まるとお父様は組んでいた腕をほどいて「照れとるんですなあ。あまりにもサキノさんが美しかもんで」と少しも慌てません。
 「実は、ご存じの通り私が政治に首を突っ込んだばかりに防府の土地を手放すというみっともないことをやってしまいましたが、長男のあいつと力を合わせて種田の名前はしっかり残していきたいと思うております。ところが、あいつときたら小説とか俳句とかに夢中になりよって家業については全くの無関心ですわ。これが、女とか」
 ここで一息入れて
 「賭け事なんかにうつつを抜かしているのでありゃ、アレを廃嫡して遠縁の有富家に養子にとられた次男を呼び戻すんじゃが、俳句程度なら旦那芸としてもそう悪いもんでもなしですなあ…アレも身を固めて子供でも出来りゃ、家業に目もいき事業への欲も出てくると踏んどるような訳でのんた、ひとえにサキノさんにお願いするしかないような次第で…と言いますのも、まあ、種田という名前があるせいか縁談はそれこそ降るように持ち込まれてきちょるんですわ。ところがあいつは鼻にも引っかけません。ですから、さっきあいつが挨拶に出てきたので、正直私も驚いちょります。光明をみた思いです」
 というようなことをお父様は諄々と話されまして、でも、本人からはっきりと断られたのでから父は憮然としていました。失礼して外に出ると「もう、ここに来ることは二度とないな」と種田酒造の大きな看板を見上げました。

咲野…山頭火の妻1

咲野1             
 …え? また、あの人の句碑が建つんですか。今度は京都、ですか。地蔵院? …というと、お寺ですいね。出家しちょっただけにお寺が多いごとありますねえ…それにしても、山頭火も有名になったもんですの~た。生きちょる時は親戚や生まれ育った土地の人たちから乞食坊主と蔑まれ、疫病神のように忌み嫌われておったのが夢のごとあります。それが、立派な本を出していただき、句碑がありこちに建てられ、もう、有難いやら、不思議やら…。
 でもですね、山頭火も生まれたときからほいと乞食じゃったわけではありませんでね、私が嫁いだとき。あ、申し遅れました。私は「山頭火の妻」と言われている佐藤サキノといいます。はい。「持ちきれない荷物」の一つにされてしもうた女です。で、私が嫁いだ時は落ちぶれたとはいえ、まだ、造り酒屋の若旦那やったとですよ。そうなんです。
 山頭火の本名は種田正一。防府の大地主「大種田」の長男として明治十五年に生まれたとです。防府は山口県のほぼ真ん中あたりの周防灘に面した街で、佐波川という大きな川の河口にあります。大種田は防府で一番の大地主でした。そこの長男として何不自由のう育って早稲田大学まで行ったまではよかったもんのその頃から「大種田」の没落がはじまっておりましてね、それを気に病んで神経衰弱になったとかで中退してしもうたとです。早稲田では小川未明か種田正一かと言われるほど文学的な才能が期待されておったそうなんですけど。
 私はその佐波川のずっと上流にある高瀬という村で生まれたとです。深~い山ん中に数十軒の家が見え隠れに建っとるような、そんな村ですいね。まあ、農村でございます。林業と農業の村。私ん家は一番奥の小高い丘の上に村全体を見下ろすように聳えちょりました。自分の口で言うのもなんですが、実家の佐藤は高瀬一帯の地主で蒟蒻を作って卸しちょりました。今も残っとる家には蒟蒻芋を貯蔵する地下室があります。兄と弟の間の一人娘ということもありまして世間で言う乳母日傘で育ちよった訳で…生まれたのは日清戦争の始まる五年前の明治二十二年であります。そんな田舎でしたから、まだ、ちょんまげのおじいさんが居ったりしてのんびりしちょったもんでした。
 父や母にはずいぶん可愛がられました。兄や弟、分家のいとこたちとも仲良うに育って、村の子供たちはみんな友達というなんの悩みもない恵まれた子供時代やったように思います。

 父は私を周南女学校に入れました。
 高瀬の子供たちは村の尋常小学校を出るとお百姓さんになったり徳山の工場に働きにいきよりましたが、父は時代を感じとらしとったことでしょうし、家の格式からもどこへ出しても恥ずかしゅうない娘にするために、まあ、そんなことから良妻賢母を育てるという評判の良いお嬢さん学校といことで周南に進学させたのだと思うちょります。
 その女学校は防府にありまして、とても高瀬から通える距離ではありません。ですから寮があったというのも父には都合がよかったとでしょう。山口や徳山や鳥取の東京や大阪までは出しきらんかった親たちが喜んで娘たちをこの学校に入れとりました。
 しつけや礼儀作法はそれなりに厳しいといえばそうでしょうが、なにしろ女というだけで一段も二段も低く見られていた封建時代でしたもんねえ、親元を離れてみんないきいきのびのびしちょりました。お箸が転んでもおかしがる年頃のもんが集まっとりますから寮では笑い声が絶えませんでした。
 それよりなにより防府は街でありました。毛利様の治められてきた由緒ある城下町でありながら東京へまっすぐに行けるという汽車の駅もできちょりまして、山奥から出てきた娘にとっては街全体がキラキラ輝いて見えたことです。なんせ、高瀬には店さえもほんの数軒しかありませんでしたもんね。
 学校が休みの日は友達と商店街を歩くのが楽しくて、お茶やお花の稽古にかこつけてよう歩きよったもんです。今から思うに、一番楽しい時期やったのかもしれません。その周南女学校も昭和十九年に廃校になったと聞きました。
 なんとのう親が選んでくれた人に嫁いで、子供をたくさん産んで育てて、それで一生が終わるくらいにしか思うとりませんでした。それが母や叔母たちの生き方で、子供の目からはなんの不足もない生き方のように見えちょりました。そんなもんやったんです。
 私の少女時代というのは長い鎖国が解かれてほんの三十年足らずという頃でありましたし、文明開化のあれこれがなかなか届いてこない海と山と川しかない田舎でありました。

『花箋』 くちなし9


二年後。加代子さんからやえちゃんが入院しているとの電話があった。二人でお見舞いに行った。
明るく西日の差し込む病室でやえちゃんは目を閉じていた。肝硬変だそうだ。
「アル中だよ」
黄色味の強い顔でやえちゃんは言った。きれいな声だ。
声に反比例して全体に弱々しい。
「だから飲み過ぎだって」
「うん」
「みんな心配してるのよ」
加代子さんが言うとやえちゃんは鼻先で笑った。
「ねえ、良くなったら尾瀬に行かない?」
わたしは不意に言っていた。
「この前、行ってきたの。やえちゃんにあの枯葉色の景色を見せたいて思ったんだ」
「オゼ…」
やえちゃんの目が遠くなった。

高校二年の晩秋。午後の授業をさぼってわたし達は制服のまま最初に来たバスに乗った。防衛大学行きだった。
バス停かた大学まではかなりの山道。裏道を歩いて行った足裏はふんだんに積もっていた枯葉の壊れる音を吸収する。
立原道造や中原中也の話で盛り上がった。
バリ、グサっ、ガサという破壊音はストレートに心臓まで伝わりそれが心地よかった。

「まあ!そんなことしてたの、あなた達」
「軍港にも安針塚にも行ったネ。やえちゃん」
やえちゃんは漁村では見せなかった穏やかな目をした。
「わたしもキャラバンシューズ買って足慣らししとくね」
そう言う加代子さんにもやえちゃんはほほえんだ。

次にお見舞いに行ったときは尾瀬の写真集を2冊持って行った。
髪を下ろした尼さんのように切りそろえられていた髪がかなり伸びて、信じられないくらい暗い黄色い顔をしていた。
「ほんとに行こうね」
写真集をパラパラめくりながら小声でやえちゃんは言う。
加代子さんもわたしもそんな日は来ないと思った。
そして一月後に訃報の知らせがきた。

漁村やがっかいの人たちによって葬儀が行われ、それに参加しなかったわたし達かってのクラスメートはじつにゆっくり焼き場に向かうやえちゃんの遺体を乗せたセダンのうしろをついて歩いた。
夕陽も背後からついてきて、まるで野辺送りのよう。やえちゃんには相応しいかったかもしれない。
途方にくれたように遺体に寄り添うご主人の横には腰の曲がったお姑さん。
唇を真一文に結びしっかり年の離れた妹の手を握りしめてるのは高校三年生の由希子ちゃんだ。
これからは母代わりとなるのだろう。
「大変だけど、がんばってね」
そんな陳腐なことしか言えない自分が情けない。
由希子ちゃんは聞き飽きたのか覚悟ができていたのかうっすらと笑った。その笑い方はやえちゃんを思い出させた。
別れ際にやえちゃんが尾瀬に行くのを楽しみに、すごく楽しみにして尾瀬の写真集を最後まで見ていたと言った。。
「ありがとうございました」
由希子ちゃんは深く頭を下げてから妹の手を引っ張って車に乗り込んだ。わたしは小さく「さよなら」と呟いた。
不意に不思議な香りが鼻をついた。見回してみるとくちなしの花。道の端に砂埃にまみれたそれはあった。
白いはずの花は茶色くしおれ力尽きそうになりながら香りを放っていた。

この日、富士山は見えなかった。(終)

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