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『花箋』 くちなし4

くちなし4
おかあさんから頻繁にかかってくる電話はSOSだった。
やえちゃんのおとうさんは趣味人と言えば聞こえはいいが、遊び人。
多少の浮いた話には見ぬふりをしてきたおかあさんだったが「今回ばかりは許せない」と受話器の中から涙が零れ落ちてくるような気配さえした。
ドブ板通りでは遣り手で通っていたおかあさんだったが円が上がってカフェバーの経営もきつくなっていた。
おかあさんは疲れている。
やえちゃんの長女魂が目覚めた。
まだ学生の弟と妹のためにも両親の仲を修復させなければならない。
やえちゃんは赤ん坊を連れて吹雪く夜汽車に飛び乗った。
そして、二度と網走へは戻らなかった。

横須賀は坂と石段の街。
いくつもの坂は川のように海に向かって伸びている。
海の向こうに小さく富士山が見える街でもあった。
坂の随所に枝のように石段があってそれを登ると家々がある。谷戸という。
坂を下りきったあたりは下町と呼ばれ、かの小泉元総理の家もそこにある。
いつもその坂を歩くと下の方から潮の香が這うように漂ってくる。
軍港の海にはない匂いが下町の海にはあった。
私は転勤族の妻となって奈良の住宅地で暮らしていた。
結婚式で上京したついでに同級生だった加代子さんに誘われて石段の街へ足を伸ばしてみた。
加代子さんは居酒屋に連れて行ってくれた。
そこは繁華街にある私鉄の駅から海へ向かう坂。少し登って横道に入った所にあった。

店からは賑やかな笑い声が絶え間なく響いていた。
そこにやえちゃんが居た。髪をアップにして着物姿の笑い声の主役はやえちゃんだった。
一見したところ、お客さんはブルーカラーの人が多かった。
やえちゃんは私を見ると一瞬、演技者が台詞を忘れたような顔をした。
が、すぐに「わ。生きていたの~」と満面の笑みを浮かべた。
男たちにお酒をついで回るやえちゃんがあの袴姿のやえちゃんと同じ人?
畳敷きの場所ではおかあさんが小さな女の子を遊ばせていた。
女の子はの名前は由希子ちゃん。わたしの息子と同じ年だ。
おかあさんは「先生はお元気ですか」と懐かしそうに言ってくれた。
離婚の時に相談相手になっていただきたかったと。

そう、おかあさんは離婚してドブ板通りの店を閉めこの居酒屋を始めたのだった。
網走から帰ってきたやえちゃんが両親の間に立って纏めたらしい。
割烹着を着たおかあさんにはかってのママの面影はなく疲れたおばあちゃん。
離婚や借金など幾つもの地獄を一度に味わってきたのかもしれない。
そんなおかあさんにとってやえちゃんは心強い存在。
だから、やえちゃんはおかあさんのために家族のために網走には帰らなかった。


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