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『花箋』 くちなし7

くちなし7
その頃わたしはタウン誌のフリーの記者をしていた。
三浦半島の埋もれた歴史を探す仕事だ。
最後の海軍大将井上成美がその漁村の丘の上で暮らしていたという。その無人の家は今も残っている。
世俗的な物に一切背を向けた孤高な生き方に魅かれていた。
海鳴りのするバス停を降りて岸壁沿いに左に行くとやえちゃんの家。
避けたい気持ちがあったのか、わたしはまっすぐに丘の方への道を歩き出した。
5分も歩いただろうか。
「冬子さ~ん」の声が背中に響いた。
やえちゃんはわたしが通りすぎた家の一軒から出てきたみたい。
前回会った時より全体に薄汚くなっている感じがした。手に一升瓶をぶらさげているせいか?
やえちゃんは「お昼を食べに行こう」と歩き出した。
連れて行かれたのは民宿。
海辺の崖の上に建っていて窓からは深い碧色の海と曲がった松の枝が見えた。

民宿の女将さんは10才くらい若い。
やえちゃんの信奉者なのか相好を崩して迎えてくれた。
この漁村ではやえちゃんは尊敬されていた。
なんでも知っていて誰にでも優しく面倒見が良い。
民生委員もやってるらしい。よろず相談を気楽に受ける。村の若者は高校を出ると横須賀や横浜、東京に出て行って帰って来ない。
民宿の客は荒崎という富士山のある海の観光か釣り人だ。
だんなが漁師で女将さんは趣味で民宿をやってるらしい。
「みんな出て行ってからに、部屋が空いとるもんで」
やえちゃんはコップに持参のお酒をついだ。女将さんも料理を運ぶ合間に吞んだ。
「やえちゃんが来てくれてから、うちらの暮らしもよくなったんよ。少しは考えるようにもなったし」
次々と出てくる魚は新鮮でおいしかった。だんなが今朝水揚げしてきたというだけのことはある。
漁師の妻のやえちゃんは魚にはお箸もつけずにお酒ばかり吞んでいた。
この村ではみんな親戚みたいなものかもしれない。
やえちゃんの末娘は放置していても誰かが面倒を看てくれるらしい。
漁師の夫は無口で内気。魚を捕るか酒を吞むことぐらいしかできない。と、やえちゃんは思っている。
夫の両親は子連れのやえちゃんを喜んで迎え入れてくれた。漁師の所などと結婚を諦めていた木訥な息子がハイカラな嫁さんを連れてきたからだ。
やえちゃんの言うことは殆ど受け入れられ、がっかいにもすぐに入ってくれた。
やがて、この家ではやえちゃんが主導権を握り何をしても咎められることがなくなった。
跡継ぎの男の子も産んでくれた。これ以上は何も望んでいない。
それでもたまには連れ子の由希子ちゃんには愚痴をこぼしたらしい。ママには言うなと必ず言われた。だから言わなかった。母を苦しめると思ったから…そんな娘に由希子ちゃんは成長していった。
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