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『花箋』 くちなし8

くちなし8
「文学界の新人賞の予選通過したくらいで調子にのるんじゃないよ」
金目鯛の煮付けと格闘していたわたしにやえちゃん。
びっくりして顔を上げるとやえちゃんの目が据わっている。
「お酒、飲み過ぎだよ」
「飲まないで暮らせるいいご身分だよね、冬子さんは」
やえちゃんは一人でも多くの人に安らぎを与えたいと頑張っているらしい。毎晩、いや昼間でも漁船のでない日には一升瓶をぶらさげよその家に上がり込んではがっかいの奥儀をやさしく説く。
一歩家を出ると富士山が空に浮かび海が光っている。
人々は這いつくばるように生きている。
心が安寧であればどうでもいい。人はいずれ死ぬ。あの世にこそ幸があり、そこへ行くためには徳を積まなければならないのだ。
お酒の味は網走の寒さで覚えた。
横須賀に戻ると母の居酒屋で飲むほどに客が喜んだ。
この漁村では膝を交えて飲み交わすことで心が通じる。
教えを広めることが人の役に立つと一途に信じたやえちゃん。わたしと会うとそこに見えない亀裂が走るのかもしれない。
やえちゃんには誰にも見せることのない書きかけの小説が幾つかあるがもはや手に取ることも出来ず、さりとて焼却もできずにいた。
おかあさんも舅もやえちゃんが最期を看取った。ふたりとも安らかに旅立って行った。がっかいの人たちが大勢来てくれて立派な心のこもった葬儀が出せた。
あの世に続くこの道…素面の時はどこで道を間違えたのだろうと思うのだが、そうでない時は自己肯定の塊になる。
そして素面の時間はどんどん減っていく。
海に浮かぶあの富士山のようになりたかった。
この村の八割ほどの人を仲間に出来たとき達成感を味わったが日にバスが五便しかない場所に暮らしていては多の村まで制覇しに行くことは不可能だった。
この村で十割を目指すしかない。
かっては選挙があると横須賀や横浜まで出向いて活動したものの今はこの姿を見られたくないという思いも強くなっていた。
あの頃は、みすぼらしい格好が誇りだったのに。
わたしに対しても奥義を口にするどころかさもしい希望にケチをつけることしかできないのを自嘲していたのだろう。
ケチをつけられたわたしは重い気持ちを抱いて井上成美は後日にして帰りのバスに乗った。
今になると、あの時ならまだなんとかなったのかもしれないと自分を責めたりもする。

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