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咲野…山頭火の妻1

咲野1             
 …え? また、あの人の句碑が建つんですか。今度は京都、ですか。地蔵院? …というと、お寺ですいね。出家しちょっただけにお寺が多いごとありますねえ…それにしても、山頭火も有名になったもんですの~た。生きちょる時は親戚や生まれ育った土地の人たちから乞食坊主と蔑まれ、疫病神のように忌み嫌われておったのが夢のごとあります。それが、立派な本を出していただき、句碑がありこちに建てられ、もう、有難いやら、不思議やら…。
 でもですね、山頭火も生まれたときからほいと乞食じゃったわけではありませんでね、私が嫁いだとき。あ、申し遅れました。私は「山頭火の妻」と言われている佐藤サキノといいます。はい。「持ちきれない荷物」の一つにされてしもうた女です。で、私が嫁いだ時は落ちぶれたとはいえ、まだ、造り酒屋の若旦那やったとですよ。そうなんです。
 山頭火の本名は種田正一。防府の大地主「大種田」の長男として明治十五年に生まれたとです。防府は山口県のほぼ真ん中あたりの周防灘に面した街で、佐波川という大きな川の河口にあります。大種田は防府で一番の大地主でした。そこの長男として何不自由のう育って早稲田大学まで行ったまではよかったもんのその頃から「大種田」の没落がはじまっておりましてね、それを気に病んで神経衰弱になったとかで中退してしもうたとです。早稲田では小川未明か種田正一かと言われるほど文学的な才能が期待されておったそうなんですけど。
 私はその佐波川のずっと上流にある高瀬という村で生まれたとです。深~い山ん中に数十軒の家が見え隠れに建っとるような、そんな村ですいね。まあ、農村でございます。林業と農業の村。私ん家は一番奥の小高い丘の上に村全体を見下ろすように聳えちょりました。自分の口で言うのもなんですが、実家の佐藤は高瀬一帯の地主で蒟蒻を作って卸しちょりました。今も残っとる家には蒟蒻芋を貯蔵する地下室があります。兄と弟の間の一人娘ということもありまして世間で言う乳母日傘で育ちよった訳で…生まれたのは日清戦争の始まる五年前の明治二十二年であります。そんな田舎でしたから、まだ、ちょんまげのおじいさんが居ったりしてのんびりしちょったもんでした。
 父や母にはずいぶん可愛がられました。兄や弟、分家のいとこたちとも仲良うに育って、村の子供たちはみんな友達というなんの悩みもない恵まれた子供時代やったように思います。

 父は私を周南女学校に入れました。
 高瀬の子供たちは村の尋常小学校を出るとお百姓さんになったり徳山の工場に働きにいきよりましたが、父は時代を感じとらしとったことでしょうし、家の格式からもどこへ出しても恥ずかしゅうない娘にするために、まあ、そんなことから良妻賢母を育てるという評判の良いお嬢さん学校といことで周南に進学させたのだと思うちょります。
 その女学校は防府にありまして、とても高瀬から通える距離ではありません。ですから寮があったというのも父には都合がよかったとでしょう。山口や徳山や鳥取の東京や大阪までは出しきらんかった親たちが喜んで娘たちをこの学校に入れとりました。
 しつけや礼儀作法はそれなりに厳しいといえばそうでしょうが、なにしろ女というだけで一段も二段も低く見られていた封建時代でしたもんねえ、親元を離れてみんないきいきのびのびしちょりました。お箸が転んでもおかしがる年頃のもんが集まっとりますから寮では笑い声が絶えませんでした。
 それよりなにより防府は街でありました。毛利様の治められてきた由緒ある城下町でありながら東京へまっすぐに行けるという汽車の駅もできちょりまして、山奥から出てきた娘にとっては街全体がキラキラ輝いて見えたことです。なんせ、高瀬には店さえもほんの数軒しかありませんでしたもんね。
 学校が休みの日は友達と商店街を歩くのが楽しくて、お茶やお花の稽古にかこつけてよう歩きよったもんです。今から思うに、一番楽しい時期やったのかもしれません。その周南女学校も昭和十九年に廃校になったと聞きました。
 なんとのう親が選んでくれた人に嫁いで、子供をたくさん産んで育てて、それで一生が終わるくらいにしか思うとりませんでした。それが母や叔母たちの生き方で、子供の目からはなんの不足もない生き方のように見えちょりました。そんなもんやったんです。
 私の少女時代というのは長い鎖国が解かれてほんの三十年足らずという頃でありましたし、文明開化のあれこれがなかなか届いてこない海と山と川しかない田舎でありました。
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